「ケージの中のコカイン」——依存症の語り方を変える時
哲学者ハンナ・ピカードの新著が問う、依存症の本質。道徳的失敗でも脳の病気でもない、第三の視点とは何か。日本社会における孤立・孤独問題との接点を考える。
あなたが一人で部屋に閉じ込められたとする。スマートフォンもない。窓もない。出口もない。そこにあるのは、コカインの山だけだ。
あなたは、手を伸ばすだろうか?
この問いを投げかけるのは、哲学者のハンナ・ピカードだ。彼女の新著『What Would You Do Alone in a Cage With Nothing but Cocaine?(コカインしかないケージの中で、あなたは何をするか?)』は、依存症をめぐる二つの支配的な物語——「道徳的失敗」か「脳が乗っ取られた被害者」か——どちらも現実を捉えきれていないと論じる。
「ケージ」という比喩が示すもの
ピカードが言う「ケージ」とは、文字通りの檻ではない。孤立、貧困、幼少期のトラウマ、社会的排除——依存症が育つ土壌となる環境そのものの比喩だ。
1990年代に台頭した「脳疾患モデル」は、スティグマ(社会的烙印)の軽減を目指すものとして歓迎された。薬物依存は意志の弱さではなく、脳の病気だ——そう言い換えることで、当事者への非難を和らげようとした。しかしピカードは、このモデルにも問題があると指摘する。「コカインが脳を乗っ取るから使う」という説明では、なぜあなたがケージの中でコカインに手を伸ばすかを説明できない。孤独で、退屈で、苦しいから——それが人間の正直な答えだからだ。
彼女が提案する定義はシンプルだ。依存症とは「薬物使用が歪んだ状態」、つまり深刻なコストを伴いながらも使用が続き、その人自身の幸福を損なう行動パターンだ。そして重要なのは、その「なぜ」は一つではないという点だ。
深い孤独と絶望の中にいて、薬物が唯一の安らぎである人もいる。薬物が「愛着の対象」になり、不安定な世界で唯一信頼できるものになっている人もいる。自傷や自殺願望が、直接的な暴力を避けながら自分を傷つける手段として薬物使用に向かう人もいる。否定、合理化、認知バイアス——これらは人間誰しもが持つ非合理性の表れでもある。
責任と非難は、切り離せる
「では、どう接すればいいのか」——この問いに対するピカードの答えは、臨床経験から来ている。
責任と非難は、切り離すことができる。
責任とは、当事者に主体性と選択の余地があることを認めることだ。非難とは、敵意や罰を与える権利があるという考えだ。ピカードは後者を否定しながら、前者を肯定する。親が10代の子どもを叱る時、人格を否定するのではなく、行動に責任を持たせながらも愛情を持って関わる——そのような「ケアを伴う説明責任」が、回復を支える。
彼女が紹介するグループセラピーのエピソードは印象的だ。白紙に「薬物を使わない。もし使ってしまったら、グループの誰かに連絡する」と書き、患者と治療者が共に署名し、励ましのメッセージを書き添える。その紙を患者はポケットに入れて持ち歩く。「脳の病気を、一枚の紙で治すことはできない。しかし、その紙は責任の象徴であり、ポケットに入れて持ち歩ける具体的なケアの証だった」とピカードは書く。
日本社会との接点——「ケージ」は遠い話か
この議論は、日本にとって他人事ではない。
日本では薬物依存への視線は依然として厳しく、「意志の弱さ」「人格の問題」という道徳的モデルが根強い。2023年の厚生労働省の調査によれば、精神科・依存症専門医療機関へのアクセスは地方で特に不足しており、当事者が支援を求めることへのハードルは高い。芸能人の薬物事件が報道されるたびに、社会的制裁の嵐が吹き荒れる光景は、ピカードが批判する「道徳的モデルの文化的汚染」そのものだ。
一方、日本は世界でも有数の孤独・孤立問題を抱える社会でもある。2021年に「孤独・孤立対策担当大臣」が設置されたことは、問題の深刻さを示している。ピカードが言う「ケージ」——孤立、経済的不利、絶望——の条件は、日本の至る所に存在する。アルコール依存症の推定患者数は107万人(厚生労働省推計)、しかし実際に治療を受けているのはその一部に過ぎないとされる。
回復には「新しいアイデンティティの物語」が必要だとピカードは言う。しかし、一度でも依存症のレッテルを貼られた人が「かつて依存症だったが、今は違う」と語れる社会的土壌が、日本にはどれほどあるだろうか。
多様な視点から
医療の立場からは、ピカードの議論は「バイオ・サイコ・ソーシャルモデル」——生物・心理・社会的要因を統合する現代精神医学の方向性と一致している。しかし「脳疾患モデルを完全に否定するのは行き過ぎだ」という批判もある。神経科学者の中には、依存症における前頭前皮質の機能変化は無視できないと主張する研究者も多い。
政策の観点では、依存症を「個人の問題」ではなく「社会が作った問題」と捉えるピカードの視点は、ハームリダクション(被害軽減)政策の哲学的根拠にもなりうる。ポルトガルが2001年に薬物の個人使用を非犯罪化し、刑事罰の代わりに治療・支援につなげる政策に転換して成果を上げた事例は、この方向性の一つの答えだ。日本の厳罰主義的アプローチとは対照的である。
当事者の視点では、「被害者でも犯罪者でもなく、主体性を持った人間として扱われること」への切実な願いがある。スティグマが回復の最大の障壁の一つであることは、国内外の研究が示している。
本コンテンツはAIが原文記事を基に要約・分析したものです。正確性に努めていますが、誤りがある可能性があります。原文の確認をお勧めします。
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