見えない戦争が食卓を奪う日
ホルムズ海峡封鎖がインドの料理用ガスを枯渇させ、バングラデシュの肥料工場を止め、日本の石炭政策を逆行させている。3.2億人の日常を揺るがす「遠い戦争」の波紋を読む。
「ガス不足のため、ロティはご提供できません(イランと米国の戦争による)」——インド・ベンガルールのある食堂に貼り出された手書きの張り紙が、SNSで拡散した。戦場から数千キロ離れた厨房で、戦争は静かに食事を奪い始めている。
今年2月28日、米国とイスラエルによるイランへの軍事攻撃が始まった。その直接的な余波として、世界のエネルギー物流の要衝であるホルムズ海峡が事実上封鎖状態に陥った。幅わずか21マイルのこの水路は、平時には世界の原油の20%、液化天然ガス(LNG)の20%、海上輸送される肥料の3分の1、そして硫黄輸出の約半分を通過させていた。現在、商品輸送量は95%減少している。
この封鎖が影響を及ぼしている人口は推計32億人。燃料の配給制限、停電、エネルギー規制——いずれかの形で、これほど多くの人々の日常が揺れている。
食卓から消えるもの、積み上がる危機
インドは調理用LPGの大部分をホルムズ海峡経由で輸入している。封鎖後、LPGボンベの闇市場価格は約3倍に跳ね上がった。ムンバイの老舗レストランはラマダン期間の多品目メニューをわずか4品に絞り込み、ドーサ(鉄板料理)専門店はガス炎が必要なメニューを全廃した。タミル・ナードゥ州だけで約1万軒のレストランが閉鎖の危機に瀕している。
より深刻なのは、農業への影響かもしれない。ペルシャ湾岸諸国は世界の尿素輸出の約3分の1を担っている。封鎖は北半球の農家が春作付けのために肥料を必要とする最悪のタイミングで起きた。バングラデシュは国営尿素工場5つのうち4つを閉鎖。ネパールでは尿素価格が40%上昇し、コメの作付けシーズンを直撃している。世界食糧計画(WFP)は、世界で新たに4500万人が深刻な食料不安に陥るリスクがあると警告する。これは現在の飢餓人口の15%増に相当する。
日本への波及——石炭回帰という選択
ここで日本の立場を考えたい。日本はLNGの主要輸入国であり、中東依存度が極めて高い。今回の危機で、日本政府は最も古く、最も排出量の多い石炭火力発電所の稼働率を50%以下に制限していた規制を撤廃する方針を打ち出した。韓国も石炭発電の季節的上限を撤廃し、3基の石炭プラントの廃止を延期した。
この決断は理解できる。エネルギー安全保障と経済の安定は、国民生活の基盤だ。しかし同時に、日本が長年積み上げてきた脱炭素への取り組みと、パリ協定の目標との間に、新たな亀裂が入ることも意味する。東京電力や関西電力が石炭依存を再強化すれば、その影響は電力コストと大気質の両面で日本の家庭や企業に跳ね返ってくる。
もっとも、危機はすべてを後退させるわけではない。BYDをはじめとする中国系電気自動車メーカーは、この混乱を追い風と捉え、海外販売目標を戦前比15%上方修正した。あるエネルギーアナリストはこれを「アジアのウクライナ・モーメント」と表現した——ロシアのウクライナ侵攻がヨーロッパを再生可能エネルギーへと加速させたように、この危機がアジアのエネルギー転換を促す可能性だ。
日本でも、この逆風が長期的なエネルギー自立への議論を活性化させる契機になるかもしれない。太陽光・風力・水素——これらの国内エネルギー源への投資加速を後押しする政治的文脈が、今まさに形成されつつある。
見えない犠牲者たち
一方で、エネルギー転換の「銀の裏地」論には重大な留保がある。インドでは政府が、レストランや宿泊施設に対して薪・乾燥農作物・牛糞を燃料として使用することを正式に許可した。これは数年にわたるクリーン燃料普及の取り組みを一夜にして覆す決定であり、大気汚染による健康被害を直接的に増大させる。
電気自動車の普及がネパールやパキスタンで加速しても、それは今日の食卓の空白を埋めない。WFPの倉庫に積み上がったままの食料支援物資は、ドバイの港からホルムズ海峡を越えられない。戦争を戦っていない国々が、戦争の最大のコストを支払っている。
これは、現代のグローバル・サプライチェーンが内包する非対称性の問題でもある。恩恵は広く薄く分散するが、リスクは脆弱な国々に集中して降りかかる。
記者
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