「貢献的正義」とは何か――市場が測れない価値の話
哲学者マイケル・サンデルとノーベル賞経済学者ダロン・アセモグルが問う「貢献的正義」。市場が決める賃金は本当に社会への貢献を反映しているのか?日本社会への示唆を探る。
パンデミックの最中、あなたはZoomの画面越しに会議をしながら、宅配便の配達員が雨の中を走る姿を窓から眺めていたかもしれない。
あの頃、私たちは一時的に気づいた。社会を動かしているのは、テレワークできる人々だけではない、と。しかしその気づきは、感染症の収束とともに静かに消えていった。
「誰が社会を支えているか」という問い
今年のベルグルエン哲学・文化賞を受賞した哲学者マイケル・サンデルは、この「消えた気づき」を現代政治の核心に据える。彼が提唱する概念が「貢献的正義(Contributive Justice)」だ。
分配的正義が「富をどう分けるか」を問うのに対し、貢献的正義は「誰の貢献が、どれだけ社会に認められているか」を問う。ハーバード大学でのノーベル経済学賞受賞者ダロン・アセモグルとの対話の中で、サンデルはこう述べた。
「工場で働く人や日々の生活を支えるサービス労働者ではなく、カネを動かす人々に巨大な報酬と威信が集中している。これが、エリートへの民衆の反発を生んだポピュリズムの根底にある怒りの正体だ」
この問いは、遠いアメリカの話ではない。日本社会は今、まさにこの矛盾の只中にいる。
介護士の平均年収は約310万円。一方、大手証券会社のトレーダーやメガバンクの幹部はその何倍もの報酬を得る。どちらが「社会への貢献」が大きいか、と問われれば、多くの人は即答できないはずだ。しかし市場は毎日、無言のうちに答えを出し続けている。
ウォルター・ホワイトの問い
サンデルはテレビドラマ『ブレイキング・バッド』の主人公を例に挙げる。高校の化学教師だったウォルター・ホワイトは、薬物の製造・販売に転じて莫大な富を得た。では、彼の「社会への貢献」は教師時代より大きかったのか?
「誰もそうは思わない」とサンデルは言う。「私たちは市場の外でも、道徳的な価値判断ができる。問題は、その判断を集合的にどう実現するか、だ」
しかしアセモグルはここで重要な警告を発する。市場に代わる「価値の物差し」として、知識人エリートの判断を据えることへの懸念だ。
「オペラは高い芸術として多額の補助金を受けるが、労働者階級の酒場から生まれたヘビーメタルには税がかかる。これは知識人エリートが下した貢献の判断だ。エリートに価値判断の権力を与えすぎることを、私は恐れる」
この緊張関係は鋭い。市場でも、エリートでもない。では誰が、何が、価値を決めるべきなのか。
日本社会への問い直し
サンデルとアセモグルの議論は、日本の文脈で独特の深みを持つ。
日本では長らく「和」と「集団への貢献」が美徳とされてきた。しかし実際の経済的報酬と社会的承認の構造は、その建前と一致しているだろうか。
少子高齢化が進む中、介護・保育・医療の現場で働く人々の不足は深刻だ。2040年には介護人材が約69万人不足すると推計される(厚生労働省)。それでも賃金水準は他産業に比べて低いまま推移している。市場が「この仕事の価値は低い」と毎日告げ続けているからだ。
一方で、岸田政権から石破政権へと続く「賃上げ」の議論は、主に経済成長の文脈で語られる。しかしサンデルが言う「貢献への敬意」という視点は、そこにほぼ存在しない。賃金は上がるかもしれない。だが、その仕事への「尊重」は上がっているのか。
さらに日本には、もう一つの固有の問題がある。「メンバーシップ型雇用」の慣行の下、長年にわたって特定の企業・組織への貢献が個人のアイデンティティと結びついてきた。しかし終身雇用が崩れ、ジョブ型雇用への移行が叫ばれる今、「誰への、何への貢献が認められるべきか」という問いはより複雑になっている。
「市場社会」という病
サンデルは最後に、より根本的な診断を下す。
「私たちは『市場経済』を持つことから、『市場社会』になってしまった。市場経済は生産活動を組織する道具だ。しかし市場社会とは、すべてが売り物になる場所であり、市場に限界がない社会だ」
この指摘は、教育・医療・メディア・人間関係にまで市場原理が浸透した現代への批判として読める。日本でも、大学の「稼げる学部」への誘導、病院の「収益性」による診療科の選別、地方メディアの廃刊が相次ぐ現実は、この文脈と無縁ではない。
「お金が買えないものとは何か」という問いは、単なる倫理の問いではなく、社会設計の問いだとサンデルは言う。ルールを変えることで、市場が生み出す「名誉の不平等」を是正できる、と。株式買い戻しの規制、金融取引税、労働所得と資本所得の税率格差の見直し――これらは「分配」の問題であると同時に、「誰の貢献を社会が尊重するか」という問いでもある。
アセモグルはこう締めくくる。「市場経済は一種類ではない。どの財を市場で配分し、どの財を別の仕組みで配分するかは、私たちが選べる」
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