デトロイトの黒人病院が示した医療格差解消への道筋
1918年創設のダンバー記念病院から学ぶ、制度的排除に対する組織的対応と医療平等実現への教訓
1918年から2004年まで、デトロイトに存在した一つの病院が、現代の医療格差問題に重要な示唆を与えています。ダンバー記念病院の歴史は、制度的排除に直面した時、どのような対応が可能なのかを教えてくれます。
大移動がもたらした医療危機
1910年から1930年にかけて、デトロイトは劇的な人口変化を経験しました。ヘンリー・フォードが1914年に提示した「日給5ドル」という当時の2倍の賃金により、アフリカ系アメリカ人の人口は6,000人から120,000人へと20倍に急増しました。
この「大移動」は、南部の農村から北部工業都市への大規模な人口移動でした。しかし、急激な人口増加は住宅不足、雇用問題、そして深刻な医療需要の拡大を招きました。
問題は単なる量的不足ではありませんでした。制度的人種差別により、黒人住民は質の高い地域から排除され、ブラック・ボトムやパラダイス・バレーといった過密地区に押し込められました。不衛生な環境は結核、インフルエンザ、天然痘、赤痢などの感染症を蔓延させました。
医療制度からの排除と対応
白人病院は黒人患者の受け入れを拒否し、受け入れる場合も劣悪な病棟に隔離しました。黒人医師や看護師は研修機会や専門的成長の道を断たれていました。
1918年、30人の黒人医師と医療従事者がダンバー記念病院を設立しました。詩人ポール・ローレンス・ダンバーの名を冠したこの病院は、単なる医療機関を超えた存在でした。
フレデリック通り580番地の3階建てロマネスク・リバイバル様式の邸宅を改修し、25床の病院として運営を開始。手術室、検査室、薬局、看護師養成プログラムを備えていました。
「才能ある十分の一」の実践
ダンバー病院の創設者たちは、W.E.B.デュボイスの「才能ある十分の一」理論を体現していました。これは単なるエリート主義ではなく、教育を受けた黒人が社会的責任を果たすという理念でした。
ジェームズ・W・エイムス医師、アルバート・ヘンリー・ジョンソン医師らは、臨床業務を超えて公衆衛生活動に従事しました。児童疾患対策、栄養指導、レクリエーション活動の組織化など、予防医学的アプローチを重視していました。
彼らは医療を職業であると同時に、人種的奉仕と捉えていました。白人医学会から排除された黒人医師たちは、全米医学会やウェイン郡連合医学会などの並行組織を設立し、専門的自律性を確保しようとしました。
統合の進展と黒人病院の衰退
1940年代から1950年代にかけて、デトロイトには約18の黒人経営・運営病院が存在していました。しかし、第二次世界大戦後の病院統合により、これらの施設は徐々に必要性を失いました。
1965年のメディケア制度開始により、病院は公的資金を受けるために公民権法への準拠が義務付けられました。これが統合を加速させました。
ダンバー記念病院の建物は1979年に国定史跡となり、デトロイト医学会が所有していますが、2004年以来閉鎖されています。
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