マイケル・ジャクソンを「愛したい」という欲求
伝記映画『Michael』が批評家の酷評と性的虐待疑惑を乗り越え、興行収入世界第2位の伝記映画となった。なぜ人々は不都合な真実よりも「ポスターの中の彼」を選ぶのか。ファン心理と集合的記憶の深層を探る。
ゲームが止まった。それも、マイケル・ジャクソンが客席に座っただけで。
1980年代、バスケットボールの英雄マジック・ジョンソンがジャクソンをロサンゼルス・レイカーズの試合に招いた。ジャクソンは「騒ぎになる」と躊躇したが、ジョンソンは押し切った。結果は予想通りだった。「彼が座った瞬間、観客が狂ったように動き出した。上の階からも、サイドからも走ってきた。彼を退場させるために試合を止めなければならなかった」とジョンソンは米メディアVarietyに語っている。
ビヨンセも、テイラー・スウィフトも、ドレイクも、スポーツ観戦の場に現れてゲームを止めたことはない。マイケル・ジャクソンは、文字通り「別の次元」にいた。
批評家の酷評を超えた、2位の記録
2025年に公開された伝記映画『Michael』は、今や伝記映画の歴代興行収入第2位に達している。批評家たちは「表面的すぎる」「商業主義的」と厳しく批判したが、観客はそれを意に介さなかった。さらに深刻な問題がある。映画は1993年の性的虐待訴訟をほぼ完全に省いている。当時13歳の少年への性的虐待を訴えたこの訴訟でジャクソンは和解し、無罪は主張し続けた。2005年には別の告発者による裁判で無罪判決を受けた。そして2026年2月、ジャクソンの遺産財団に対して新たに4人の子どもへの性的暴行を訴える訴訟が提起された(財団側は否定している)。訴訟に関するシーンは撮影されたものの、法的問題により数百万ドルをかけて撮り直しが行われ、最終的にほぼ削除された。
それでも人々は映画館に向かった。なぜか。
記憶は、事実より強い
本記事を執筆した米国人ライターは、1984年のジャクソンズ・ビクトリー・ツアーを9歳で体験した。デトロイト郊外のポンティアック・シルバードーム、上の方の席から見た光景。どの曲が演奏されたかは覚えていないが、あの夜の「電気のような興奮」は今も鮮明に残っている、と彼女は書く。毎朝学校に行く前に壁のポスターに口づけをしていたこと。バービー人形とジャクソンの人形で繰り広げた架空のラブストーリー。ペプシのCMの撮影中に髪が燃えたとき、心から祈ったこと。ロサンゼルスに住む友人は、母親と一緒に治療を受けた病院まで車で駆けつけ、病院の前で見舞いをしたという。
映画の作り手たちが狙ったのは、まさにこの「感情の回路」だ。観客の中に眠る個人的な記憶を呼び覚まし、批判的思考よりも感傷を優先させる。それは「操作」と呼ぶこともできるが、同時に人間の記憶と感情の本質的な働きでもある。
日本でも、ジャクソンは特別な存在だった。ソニーミュージックが長年にわたって彼の音楽を日本市場に届け、1987年のバッドワールドツアーでは日本公演だけで14公演が行われた。「スリラー」のダンスを真似た世代は今、40代から50代になっている。映画を見に行くとすれば、彼らの多くが「ポスターの彼」を求めているのかもしれない。
「神話」は、なぜ消えないのか
ソーシャルメディアの時代、現代のスーパースターははるかに「身近」になった。日常の一コマをInstagramに投稿し、ファンとリアルタイムで交流する。だが逆説的に、その「近さ」が神話を生みにくくしている。ジャクソンは生涯、意図的に距離を保ち、謎のベールに包まれていた。ネバーランドという異世界、変化し続ける外見、そして子どものような純粋さと暗い告発の共存——すべてが「解読不能な存在」としての神話を強化した。
彼を生前に体験していない若い世代にとっても、ジャクソンは「音楽史の基礎」として機能している。「ビリー・ジーン」のベースライン、「スリラー」のコレオグラフィー、「スムーズ・クリミナル」のリーン——これらはポップミュージックのDNAに刻まれており、知らないことはむしろ「教養の欠如」として感じられる。
ここに、映画の興行的成功のもう一つの理由がある。ノスタルジーだけではなく、「歴史への参加」という欲求だ。
「愛したい」という選択の意味
しかし問いは残る。人々は本当に「知りたくない」のか、それとも「知った上で選んでいる」のか。
R・ケリーは収監され、ビル・コスビーは有罪判決を受けた。ウディ・アレンの作品はストリーミングサービスから姿を消しつつある。文化的な「キャンセル」の波は確実に存在する。ではなぜジャクソンだけが、これほど広く「免除」されるのか。
一つの解釈は、「芸術の規模」だ。ジャクソンの音楽と文化的影響力があまりにも大きく、それを否定することは自分自身の記憶と感情を否定することに等しいと感じる人が多い。もう一つは、「死者への訴追の難しさ」という現実的な問題だ。彼はもう反論も謝罪もできない。
だが最も根本的な問いはこうかもしれない——私たちは芸術家の「作品」と「人格」をどこまで切り離して消費できるのか、そして切り離すべきなのか。
本コンテンツはAIが原文記事を基に要約・分析したものです。正確性に努めていますが、誤りがある可能性があります。原文の確認をお勧めします。
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