「ルールの外側」に生きる超富裕層の心理
ジェフ・ベゾス、イーロン・マスク、マーク・ザッカーバーグ——彼らはなぜ「共感」を捨て、社会のルールから自由になったのか。ある映画プロデューサーの体験談から、超富裕層の心理構造を読み解く。
「私は終わった(I'm finished)」——この言葉を、自分への裁きとして受け取る人はいないだろう。
2007年の映画『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のラストシーン。石油王ダニエル・プレインビューは、かつての宿敵を自らのボウリング場で殴り殺した後、執事に向かってそう叫ぶ。それは「終わった」ではなく、「完成した」という意味だ。富と権力の頂点に達し、人間社会のルールが自分には適用されない領域へと到達した——その宣言だ。
アメリカの映画プロデューサーで作家のJ・J・エイブラムス氏の盟友でもある著述家が、この映画のシーンを繰り返し見るのは、現実の世界でその「完成」を体験したからかもしれない。
「世界を動かす人々」の宴に招かれた夜
2018年、著者はジェフ・ベゾスが主催するプライベートリトリート「キャンプファイヤー」に招待された。カリフォルニア州サンタバーバラの高級リゾートを丸ごと貸し切り、著名人・知識人・億万長者ら80名以上が集う年次イベントだ。参加者には専用のプライベートジェットが手配され、子ども一人につき専属ナニーが付き、デザイナーズブランドのギフトバッグが部屋で待っていた。
TEDトーク形式の講演には現職の最高裁判事が登場し、著名なシェフが人道支援活動を語り、夜は4コースのディナーを囲みながら「世界をより良くする方法」が語り合われた。著者が会場で最も多く耳にした問いは、「なぜ私がここに?」という言葉だった。
その問いを口にしなかったのは、映画スターと億万長者だけだった。彼らにとって、このような「アイデア・フェスティバル」は日常の一部だったからだ。
しかし週末の終わりに、著者の妻は濡れた芝生で転倒して手首を骨折した。著者自身と子どもたちは手足口病を発症した。黒塗りのSUVに乗せられ病院の裏口から案内された著者は、翌日、ベゾスに直接その顛末を伝えた。夫として、父として、ホストとして、人間的なつながりを求めて。
だがベゾスの反応は、「大丈夫ですか?」でも「申し訳ない」でもなかった。彼は「ぞっとした表情」を浮かべ、すぐに側近に連れ去られた。共感の機会を与えられたとき、彼が選んだのは——逃走だった。
「失敗」という言葉が意味を失う世界
この小さなエピソードは、著者が提示する大きな問いへの入口に過ぎない。
真の富とは何か。それはスーパーヨットや自家用ジェットを買える経済力ではない、と著者は言う。真の富とは、すべてが「無料」になることだ。
まもなく兆万長者(トリリオネア)となる人々にとって、どれほどの損失も彼らの地位や権力を揺るがすことはない。「失敗」という言葉が、文字通り意味を失う。イーロン・マスクが主導したDOGE(政府効率化省)による連邦政府の大規模削減は、実質的な財政効果をほとんど生まなかった。だが彼にとって、それは問題ではなかった。勝ち負けという概念そのものが、もはや彼には適用されないからだ。
発達心理学の数十年にわたる研究が示すのは、道徳的判断力は「結果」を通じて育まれるという事実だ。自分の行動が他者に与える影響を感じ、正直なフィードバックを受け、現実と向き合う——その繰り返しが、人間を人間にする。しかし、どんな失敗も金で解決でき、反論する者は解雇でき、周囲の全員が自分に何かを求めている環境では、「他者が実在する」という感覚を育てるメカニズムが機能しなくなる。
ピーター・ティールが「自由と民主主義は両立しない」と言ったとき、彼が語っていたのは自分自身の自由についてだった。マスクが「共感は西洋文明の根本的な弱点だ」と言うとき、それは単なる挑発ではない。共感を「脆弱性」と定義し直すことで、共感を持たないことを欠陥ではなく「優位性」として正当化する——その哲学的転換が、今アメリカの右派テック界隈で起きている。
「金ぴか時代」の強盗男爵との違い
歴史を振り返れば、世界は常に富裕層によって動かされてきた。19世紀末のアメリカ「金ぴか時代(Gilded Age)」の「強盗男爵(Robber Barons)」たちも、労働争議を武力で鎮圧するなど、その手段は容赦なかった。
だが著者は、現代の超富裕層との決定的な違いを指摘する。かつての富豪たちは、世界と直接対峙していた。富と権力を使って世界を自分たちに都合よく「作り変えよう」とした。そこには、現実との摩擦があった。
今日の億万長者たちが行っているのは、それとは異なる。社会を自らの利益のために操作しながら、同時に因果関係そのものから切り離されている。世界を変えなくても成功は保証されている——そのような構造が生まれているのだ。
トランプ大統領は最近、「自分の権力を抑制するものは何か」と問われ、こう答えた。「一つある。私自身の道徳観だ。私自身の精神だ。それだけが私を止められる」。国内法も国際法も、有権者の意志も、神も、何世紀にもわたる市民的・宗教的倫理も——何も挙げなかった。
日本社会から見えるもの
この問題は、遠いアメリカの話だろうか。
日本にも、ソフトバンクの孫正義氏のように、数十兆円規模の資産を運用するテック系富豪は存在する。だが日本の経営者文化は、欧米のそれとは異なる面を持ってきた。「恥の文化」と言われるように、社会的評判や他者の目線が行動を律する圧力として機能してきた。
しかし、そのような文化的抑止力は、グローバルなテクノロジー資本の論理の前でどこまで有効か。AIや自動化が富の集中をさらに加速させる時代に、日本社会が長年培ってきた「和」の価値観は、超富裕層の行動規範として機能し続けるのだろうか。
あるいは逆に、日本の「失われた30年」は、富が一部に集中しても社会全体が停滞するという別の問題を示している。超富裕層の無敵感が問題なのか、それとも富が循環しない構造そのものが問題なのか——その問いは、日本にとっても他人事ではない。
記者
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