「良き友」だったアメリカ――イランとの忘れられた歴史
1953年のCIAクーデター以前、アメリカはイランにとって「良き友」だった。宣教師、医師、財政顧問たちが築いた100年の信頼関係と、それが一夜にして壊れた経緯を振り返る。
10,000人が葬儀に集まった。それはイランの王族でも政治家でもなく、一人のアメリカ人医師のためだった。
1905年、北西イランの都市ウルミアでジョセフ・プラム・コクランが息を引き取ったとき、地域の人々は涙を流して彼を見送った。コクランはペルシア語、トルコ語、クルド語、アッシリア語を話し、1879年にウルミアに病院を建て、イラン初の医学校を創設したアメリカ人だった。今日、「イラン」と「アメリカ」という言葉を並べると、多くの人が思い浮かべるのは「死にアメリカ」と叫ぶ群衆の映像だ。しかしコクランの葬儀に集まった1万人の人々は、まったく別の物語を語っている。
帝国主義の「悪役」はアメリカではなかった
19世紀のペルシア(イランが正式に国名を採用したのは1935年)にとって、真の脅威はロシアと大英帝国だった。ロシアとの二度の戦争(第一次ロシア・ペルシア戦争1804〜1813年、第二次1826〜1828年)でペルシアは広大な領土を失い、その後もロシアは国王への融資という形で政治的支配を続けた。一方イギリスは、電信線からタバコ、そして石油に至るまで、ペルシアの資源を独占的に利権として獲得した。
極めつきは1907年の英露協商だ。イギリスとロシアは、ペルシア議会にも国民にも知らせることなく、ペルシアをロシア圏、イギリス圏、「中立」圏の三つに分割する秘密協定を結んだ。この事実が公になると、国内外に激しい怒りが広がった。
アメリカの立場は対照的だった。1834年に最初のプロテスタント宣教団がウルミアに設立されて以来、アメリカ人たちは学校、病院、医学校を次々と建設した。1895年までにウルミア周辺だけで117校の学校が設立された。重要なのは、これらが純粋な民間活動であり、アメリカ政府は意図的にイランの内政から距離を置いていたことだ。
イランはアメリカへの信頼をさらに深める形で、1911年には財政再建のためにW・モーガン・シュスターを、1922年にはアーサー・C・ミルスポーを財政顧問として招いた。ミルスポーがテヘランに到着した際、地元紙はこう書いた。「あなたは瀕死の患者のもとに呼ばれた最後の医師です。失敗すれば患者は死ぬ。成功すれば患者は生きる」。両ミッションとも完全な成功とは言えなかったが、アメリカが「誠実な仲介者」であるというイランのイメージは揺るがなかった。
1953年――信頼が崩れた瞬間
その信頼が根本から壊れたのは1953年だった。CIAはイギリスと共同で、民主的に選出された首相モハンマド・モサデクを失脚させるクーデターを工作した。モサデクはアングロ・イラニアン石油会社(現在のBPの前身)を国有化しようとしていた。つまり、イランの石油をイラン人のものにしようとした指導者を、アメリカが排除したのだ。
このクーデターは、それまで120年近くにわたって積み上げられてきた信頼を一夜にして崩壊させた。1979年のイラン革命、444日間にわたる人質事件、そして現在に至る両国の敵対関係――その根は、この1953年に深く埋められている。
原稿の著者である考古学者ダニエル・トーマス・ポッツは、イランを専門に50年以上研究してきた学者だ。彼は指摘する。1979年のイスラム革命直前でさえ、アメリカへの留学生数は増え続けており、海外留学中のイラン人学生約10万人のうち51,310人がアメリカにいた。これは外国人留学生全体の17%を占め、第2位のナイジェリア(6%)を大きく引き離していた。憎しみの政治の裏側で、人と人との絆は生き続けていたのだ。
なぜ今、この歴史を振り返るのか
2026年2月28日、アメリカとイスラエルはイランへの軍事攻撃を開始し、最高指導者アリー・ハメネイーが死亡した。現在も戦争は続いている。この状況下で、「かつてアメリカとイランは友人だった」という歴史を語ることに、どんな意味があるのだろうか。
日本の視点から考えると、この問いは決して対岸の火事ではない。日本はイランから多くの原油を輸入してきた歴史があり、ホルムズ海峡の安定は日本のエネルギー安全保障に直結する。トヨタや日産をはじめとする日本企業のサプライチェーンは、中東情勢の変動に敏感だ。また、アメリカの同盟国として、日本は常に「どこまでアメリカの行動を支持するか」という問いに直面してきた。
ポッツが伝えたいのは、単なるノスタルジアではないだろう。外交関係とは、一つの政策決定によって長年の信頼が崩れうることを、この歴史は示している。そして逆に言えば、どれほど深く傷ついた関係も、歴史の中に和解の種を探すことができるということでもある。
イギリスとロシアが「悪役」だった時代、アメリカは「誠実な友」だった。アメリカが「悪役」になった後も、イランの若者たちはアメリカの大学を目指した。憎しみと親しみは、思うよりずっと複雑に絡み合っている。
記者
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