チャゴス諸島:誰のための「正義」か
英国がチャゴス諸島をモーリシャスに返還する条約を巡り、トランプ米大統領が介入。脱植民地化と安全保障の間で揺れる国際法の現実を読み解く。
半世紀前に故郷を追われた人々が、朽ちた教会と先祖の墓石に囲まれながら、島に戻ってきた。「もう二度と離れない」と彼らは誓った。だが、その島の「主権」を巡っては、今まさに米英間の外交的嵐が吹き荒れている。
何が起きているのか
2025年10月、英国とモーリシャスはチャゴス諸島の返還条約に合意した。英国はモーリシャスに対し、年間約1億ポンドを99年間にわたって支払い、ディエゴガルシア島の米英軍事基地の使用継続を確保するという内容だ。チャゴス諸島人(チャゴッシャン)のための信託基金には4000万ポンドが拠出された。
この条約は、2019年の国際司法裁判所(ICJ)勧告意見と、それを支持した国連総会決議を受けたものだ。ICJは、英国が1965年にチャゴス諸島をモーリシャスから切り離したことは国際法に違反すると判断し、脱植民地化を完了するよう求めた。
しかし今年2月、英国系チャゴス諸島人4人がスリランカから船で出発し、かつて暮らしていたペロス・バノス環礁のイル・デュ・コワン島に上陸。米国旗とBIOT(英国領インド洋地域)旗を掲げ、「Make Britain Great Again」のキャップをかぶって「占拠」を宣言した。これを機に、ナイジェル・ファラージ率いる英国改革党が条約反対を声高に叫び、ドナルド・トランプ米大統領も自身のSNSで「ディエゴガルシアを渡すな(DO NOT GIVE AWAY DIEGO GARCIA)」と英国に警告した。
なぜ今、この問題が重要なのか
背景を理解するには、1960年代まで遡る必要がある。英国は「スエズ以東」からの撤退を進める中、米国の要請に応じてインド洋の戦略的拠点を確保しようとした。そのためにチャゴス諸島をモーリシャス独立(1968年)の条件として切り離し、島民約2000人を「永住者ではなくプランテーションの契約労働者」と国連に虚偽申告して強制退去させた。
この欺瞞の歴史が、今日の法的・道義的複雑さを生んでいる。条約はまだ英国・モーリシャス両国の議会批准を得ていない。スターマー英首相は条約を推進しているが、野党は「英国に法的義務はない」「中国のスパイ活動を招く」と反発。さらにモルディブのムイッズ大統領が突如、チャゴス諸島に対するモルディブの主権を主張し、モーリシャスとの外交関係を一時停止するという新たな火種も生じた。
タイミングも重要だ。トランプ政権がイランへの軍事作戦にディエゴガルシアを使用しようとした際、英国が難色を示したことがトランプの反発を強めたとされる。インド洋の軍事的要衝を巡る米英の「特別な関係」が、かつてなく公開の場で試されている。
誰が何を失い、何を得るのか
チャゴス諸島人にとって、この問題は抽象的な国際法ではなく、生存の問題だ。英国、モーリシャス、セーシェルに散らばるその子孫たちは、数十年にわたって帰還権を求めてきた。しかし今回の条約は「帰還の法的権利」を明示しておらず、「モーリシャスがディエゴガルシア以外の島での再定住を開始できる」とするにとどまる。さらに、彼らは条約交渉に「参加していない」と高等裁判所に提訴している。
米国の立場は明快だ。トランプはモーリシャスの主権を認めようとせず、「誰も物理的に米軍の基地使用を阻止できない」と言い切った。ディエゴガルシアは2003年のイラク侵攻でも使用された戦略的要衝であり、中東・アフリカ・アジアをカバーする「三角形の要石」だ。
中国リスクについては評価が分かれる。保守系シンクタンクポリシー・エクスチェンジは、モーリシャスへの中国の経済的影響力(一帯一路投資)が安全保障上の「真空地帯」を生むと警告する。一方、インドは長年モーリシャスの主権を支持しており、地域の均衡役として機能している。インドはすでにモーリシャスの拡大排他的経済水域(EEZ)の哨戒支援を取り決めている。
日本にとってこの問題は遠い話に見えるかもしれない。しかし、インド洋はエネルギー資源と貿易の大動脈だ。日本のタンカーの多くがこの海域を通る。ディエゴガルシアの安定は、日本のエネルギー安全保障と無縁ではない。また、国際法の実効性が大国の意向によって左右されるという構図は、日本が直面する安全保障環境と深く共鳴する。
「法の支配」は誰のためにあるのか
今回の混乱が浮き彫りにするのは、国際法の根本的な矛盾だ。ICJは明確な判断を下し、国連総会は圧倒的多数で支持した。にもかかわらず、米国大統領の一声でその実施が揺らぐ。フィリップ・サンズが著書『最後の植民地』で描いたように、「テロとの戦い」が始まった2001年以降も、チャゴス諸島人の法的勝利は繰り返し安全保障の論理に押しつぶされてきた。
国連の地図はすでにモーリシャスの主権を反映し、万国郵便連合はBIOTの切手を廃止した。しかし、島に実際に駐留しているのは米軍だ。「紙の上の主権」と「実効支配」の乖離は、現代の国際秩序が抱える古くて新しい問題を象徴している。
記者
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