「レット・ゼム」は誰のものか?自己啓発ブームの裏側
9百万部超のベストセラー『The Let Them Theory』をめぐり、原作者を名乗る女性とMel Robbinsの間に著作権・帰属問題が浮上。自己啓発産業の構造的矛盾を問う。
ある言葉が、ひとりの女性の傷から生まれた。それが9百万部のベストセラーになったとき、彼女の名前はどこにもなかった。
傷から生まれた言葉
2020年、キャシー・フィリップスはサバンナ(ジョージア州)で孤立していました。夫は海外派遣から戻ったばかりで、夫婦関係は崩壊寸前。パンデミックが始まり、知人もいない街で、彼女は深夜にパソコンの前に座り、自分自身に言い聞かせるための言葉を書き始めました。
「もし彼らが何週間もあなたに連絡しないでいたいなら、LET THEM(させておけ)」——そんな一節が、やがて一連のマントラになりました。フィリップスはこれを「自分しか頼れないとわかりながら、その日を乗り越えるための言葉」と表現しています。
2022年、夫と別れた彼女は「let them」という言葉を腕にタトゥーとして刻み、そのマントラをFacebookに投稿しました。その投稿は約5万件のシェアを獲得。人々はインスタグラムでリポストし、Tシャツにプリントするほどでした。
9百万部のベストセラーへ
2023年5月、人気ポッドキャスターで自己啓発作家のメル・ロビンスがインスタグラムで「『レット・ゼム理論』というものを知った。大好き」と発信。そのポッドキャストは月間3700万ダウンロードを誇り、動画は1400万回以上再生されました。
2024年末、ロビンスは『The Let Them Theory』を出版。これが2025年の年間ベストセラー1位となり、900万部超を売り上げました。出版社担当者は「37年のキャリアでこれほど売れた本はない」と述べています。
ロビンスは本の中で、この理論のきっかけを娘のケンドールが息子のプロム前夜に言った一言だと説明しています。また、ストア哲学や仏教など、「手放す」思想の先人たちにも言及しています。しかし203の引用の中に、フィリップスの名前は一度も登場しません。
ロビンスと出版社は「フィリップスの詩を読んだことも、それに影響を受けたこともない」と否定しています。
「偶然」にしては似すぎている
フィリップスはその説明に懐疑的です。彼女のマントラはロビンスが本を執筆した時点ですでに広くシェアされており、ロビンスまたはそのチームが目にしていた可能性は高いと考えています。
具体的な類似点も指摘されています。フィリップスが「もし彼らがあなたに自分の本当の姿を見せているなら、LET THEM」と書いたのに対し、ロビンスは「Let Them show you who they are」と書いています。フィリップスの「もし彼らがあなたを批判したいなら、LET THEM」に対し、ロビンスは「Let Them judge. Let Them disapprove.」と書いています。本に掲載されたタトゥーの写真の中には、フィリップスのものと酷似した書体のものも含まれています。
さらに2024年7月、ロビンスは「Let Them」の商標登録を申請(現在審査中)。フィリップスは「ひとつのマインドセットを『これは私のものだ』と宣言するのはおかしい」と憤ります。
嫉妬か、正義か——それとも両方か
この論争には、複数の感情と利害が絡み合っています。
セラピスト兼SNSインフルエンサーのセラピー・ジェフ(本名ジェフ・ゲンター)は、ロビンスが専門的な心理療法のテクニックを「トートバッグに収まるサイズに単純化した」と批判します。ただし彼自身も認めています——「嫉妬もある」と。彼にも著書がありますが、ロビンスの売り上げには遠く及びません。
ライターのセイジ・ジャスティスは「フィリップスが築いていたモメンタムを、より大きなオーディエンスを持つ人が横取りした。これを放置すれば、同じことが繰り返される」と主張します。彼女自身も住宅不安を抱えており、出版契約を切望しています。
テネシー工科大学で嫉妬を研究するニコール・ヘニガー教授は、「人は自分と似た境遇の人が自分の分野で成功したとき、最も強い嫉妬を感じる」と説明します。銅メダルのフィギュアスケーターは、金メダリストに嫉妬しやすい——それは「自分にもできたかもしれない」という物語を脳が作り出すからです。
日本社会との接点——「言葉の所有権」という問い
この問題は、日本においても他人事ではありません。
SNS時代の日本でも、バズった言葉やフレーズが「誰のもの」かという問題は頻繁に起きています。短歌や俳句の一節、あるいはTwitter(現X)上の名言が無断で商業利用されるケースは珍しくありません。日本の著作権法でも、短いフレーズ単体は保護されにくいのが現状です。
さらに日本の自己啓発市場は巨大です。『嫌われる勇気』(アドラー心理学)や『7つの習慣』の翻訳版が長年ベストセラーリストに並ぶ国で、「手放す」「執着しない」というテーマは禅や仏教の文脈で深く根付いています。ある意味、「レット・ゼム理論」の核心は、日本文化が何百年も前から持っていた思想とも言えます。
では、その思想を「名前をつけてパッケージ化する」行為に、どれだけの独自性があるのでしょうか。
記者
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