「共存」は選択である――多元主義という徳を育てる
スリランカ出身の心理学者が語る、宗教・民族の違いを超えて共に生きるための「多元主義」とは何か。寛容・謙虚さ・共感という徳が、社会の分断をいかに乗り越えるかを考える。
「違いを認める」だけでは、戦争を止められなかった。
スリランカの古都キャンディは、仏教寺院、ヒンドゥー教の祠堂、カトリック教会、イスラム教のモスクが徒歩圏内に共存する街だ。毎年夏には「ペラヘラ」と呼ばれる仏教の祭礼行列が行われ、太鼓の音と象の行進が街を包む。多様性が生活の一部として息づいているように見える、その同じ島で、1983年から2009年にかけて内戦が勃発し、推定8万〜10万人の命が失われた。
多様性は、それだけでは平和を保証しない。では、何が必要なのか。
「多元主義」とは何か――寛容の先にあるもの
スリランカ出身の人格心理学者エランダ・ジャヤウィクレーメは、この問いを長年研究してきた。彼が指摘するのは、「多元主義(pluralism)」という言葉がしばしば誤解されているという点だ。
多元主義はしばしば「多様性」と同義に使われるが、本来の意味はより要求の高いものだ。それは単に「異なる人々が同じ社会に存在すること」ではなく、「深い違いを超えて手を伸ばし、互いの尊厳と共有された市民生活を育む能力と決意」である。
彼はこれをスペクトラムとして描く。一方の端には「憎悪」がある――「あなたの存在を認めない」。次に「無関心」――「あなたが何を信じようとどうでもいい」。その先に「忍耐としての寛容」――「反対だが、干渉しない」。さらに深い寛容は「尊重」に基づく――「反対しながらも、あなたの人間性を認める」。そして最も深い段階が「関係的・契約的多元主義」だ――「意見が違っても、あなたとのつながりにコミットする」。
この最後の段階は、抽象的な理念ではない。ジャヤウィクレーメが子供の頃に見た光景がそれを物語る。仏教徒の父とカトリックの母を持つ彼の家庭では、母親がムスリムの友人と共にヒンドゥー教の祠堂を訪れていた。週に一度世話になる商店主はタミル人やムスリムの人々だった。若い頃に外交官として働いていたムスリムの家庭教師は、授業の後に政治や文化について語り合った。
多元主義は小さな繰り返しの行為の中に宿る。
なぜ「違い」は暴力に変わるのか
歴史的に、宗教的対立はしばしば神学上の論争――教義、救済、権威をめぐる問い――として語られてきた。しかし実際には、宗教的な衝突の多くは神学とは無関係の場所で起きている。
スリランカの2019年イースター爆破事件はその典型だ。イスラム過激派グループによる教会やホテルへの連続攻撃の後、社会に広がった反ムスリム感情は、神学的な対立から生まれたものではなかった。ソーシャルメディアの誤情報と政治的な扇動が、ムスリムを「シンハラ・仏教的国家アイデンティティを脅かす外来者」として描き出した。問われていたのは「どの宗教が正しいか」ではなく、「誰がこの国に本当に属しているか」だったのだ。
日本社会においても、この構図は他人事ではない。在日外国人コミュニティへの偏見、あるいは特定の宗教団体に対する社会的不信感は、しばしば神学的な問題ではなく、「同質性への脅威」として語られる。スリランカの経験は、その問いの本質を照らし出している。
多元主義を支える「徳」とは
ジャヤウィクレーメが提唱するのは、多元主義を法制度だけに委ねるのではなく、個人の「徳(virtue)」として育てるという視点だ。彼が挙げるのは次のような要素だ。
知的謙虚さ――自分の知識の限界を認めること。確信を捨てることではなく、自分が間違っている可能性を認めること。研究によれば、知的謙虚さは対立する視点への開放性と関連している。
視点取得としての共感――感情的な共感は偏りやすく、自分に近い人々に向かいがちだ。しかし他者の思考や感情を理解しようとする「視点取得」は、異なる意見を持つ人々への偏見を減らすことが研究で示されている。
好奇心――違いを自己のアイデンティティへの脅威ではなく、学びの機会として捉え直すこと。好奇心が高い人ほど、異なる意見を持つ人々から距離を置こうとしない傾向がある。
自己調整――感情が高ぶっているときこそ、反応する前に立ち止まること。これがなければ、道徳的な不一致はすぐに非難の応酬に堕ちる。
勇気――多元主義はしばしば道徳的相対主義と混同される。しかし多元主義は自分の価値観を手放すことを意味しない。深く不一致する相手とも、自分の信念をオープンに語る勇気が求められる。
ジャヤウィクレーメはひとつの実践的な方法として「イデオロギー的チューリングテスト」を紹介している。ルールはシンプルだ。誰かの立場を批判する前に、その人が「そう、それが私の信念だ」と認めるほど正確かつ誠実に、その立場を説明できなければならない。これは会話の目的を変える――相手を打ち負かすのではなく、理解しようとする。
1983年、キャンディの夜に
1983年、タミル武装勢力が政府軍兵士13人を殺害したことをきっかけに、シンハラ人の暴徒がタミル人の家や商店を襲う「ブラック・ジュライ」が起きた。政府が組織したとも言われるこの暴力は数千人のタミル人を殺し、さらに多くの人々を難民にした。この出来事は内戦の本格化を招いたとされる。
その夜、キャンディに住んでいたジャヤウィクレーメの祖父母と叔父は、タミル人の隣人を自宅に匿った。暴徒から守るために。父によれば、それは瞬時の判断だった。隣に住む人々を「異なる民族・宗教集団のメンバー」としてではなく、「隣人」として見た、ただそれだけのことだった。
その瞬間の道徳的明晰さは、突然生まれたものではない。危機が訪れる前から積み重ねてきた習慣の中から生まれた。
| 多元主義のスペクトラム | 内容 |
|---|---|
| 憎悪 | あなたの存在を認めない |
| 無関心 | あなたの信念はどうでもいい |
| 忍耐としての寛容 | 反対だが干渉しない |
| 尊重に基づく寛容 | 不一致でも人間性を認める |
| 関係的多元主義 | 不一致でもつながりにコミットする |
本コンテンツはAIが原文記事を基に要約・分析したものです。正確性に努めていますが、誤りがある可能性があります。原文の確認をお勧めします。
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