「セミ変異株」が示す、コロナとの付き合い方の現在地
新型コロナウイルスの変異株BA.3.2(通称「セミ」)が米国を中心に拡大中。現行ワクチンの有効性への影響、高齢化社会の日本が取るべき視点を医療の現場から考える。
2024年の秋、アフリカのどこかで一つのウイルスが静かに姿を変えた。誰にも気づかれないまま国境を越え、2025年には23カ国に到達し、今や米国29州の下水道から検出されている。名前はBA.3.2、通称「セミ(Cicada)」。地中で長い時間をかけて育ち、突然地上に現れるセミのように、この変異株もまた、私たちの前に姿を現した。
「どのくらい心配すればいいですか?」——肺疾患や慢性病を抱える患者たちは、診察室でこう問いかける。カイル・エンフィールド医師(肺・集中治療専門医)は、この問いに向き合い続けている一人だ。
「見慣れない顔」が免疫をすり抜ける
BA.3.2は、2021年末に出現したオミクロン株の子孫にあたる。ただし、現在米国で主流となっているJN.1系統の株と比べると、スパイクタンパク質(ウイルスが細胞に侵入するための「鍵」の部分)に70〜75カ所もの遺伝的変異を持つ。この数字が意味するのは、私たちの免疫システムがこのウイルスを「初対面の相手」として認識してしまう可能性があるということだ。
エンフィールド医師はこう例える。「25年ぶりの同窓会で、体型も髪色も変わった旧友に会うようなもの。見覚えはあっても、すぐには誰だかわからない」。免疫の「認識の遅れ」が、感染拡大につながりうる。
現行のCOVID-19ワクチンは、2024年1月以降に主流だったJN.1系統に合わせて設計されている。BA.3.2はこの系統から大きく異なるため、ワクチンが免疫系を「準備」させる効果が低下する可能性がある。ただし、これはワクチンが無意味だということではない。重症化や死亡リスクを下げる効果は、変異株が変わっても相応に維持されることが多くの研究で示されている。「マッチングが悪いワクチン」は、免疫の反応が遅くなるだけで、完全に無効化されるわけではないのだ。
なぜ「今」、このニュースが重要なのか
米国では2025年から2026年の冬にかけて流行していた株と比べ、BA.3.2が特に「危険」だという証拠は今のところない。重症化率が高いというデータも出ていない。しかし、それでもこの変異株に注目すべき理由がある。
一つは、感染者数の増加が見込まれること。免疫のすり抜けが起きやすい変異株は、たとえ毒性が同じでも、感染者の絶対数を増やす。感染者が増えれば、重症者の数も比例して増える。
もう一つは、ロングCOVID(後遺症)のリスクだ。現在、COVID-19感染者の約3%にロングCOVIDが発生するとされている。以前よりは低下しているとはいえ、感染者数が増えれば後遺症に悩む人の数も増加する。日本でも、ロングCOVIDは就労困難や生活の質の低下につながるケースが報告されており、社会的・経済的な負担は軽視できない。
そして、日本特有の文脈として見逃せないのが高齢化社会という現実だ。日本の65歳以上の人口比率は約29%と世界最高水準にあり、慢性肺疾患、心疾患、糖尿病などの基礎疾患を持つ人の割合も高い。こうした方々にとって、免疫のすり抜けが起きやすい変異株の出現は、より慎重な対応を求める信号となる。
監視体制の「静かな後退」
ここで一つ、見過ごされがちな問題を指摘したい。米国では、パンデミックの山を越えた2022年頃から、下水サーベイランス(下水からウイルスを検出する監視システム)のデータをCDCに提出する州の数が減少している。BA.3.2が「29州の下水から検出された」という数字は、逆に言えば、残りの州では十分な監視が行われていない可能性を示唆する。
日本でも、コロナの5類移行(2023年5月)以降、感染動向の把握方法が変化した。定点観測への移行により、リアルタイムの感染状況が見えにくくなったという指摘は少なくない。公衆衛生の監視体制は、「平時」にこそ維持することが、次の波への備えになる。
私たちにできること
特効薬がない今、感染予防の基本は変わらない。手洗いは呼吸器感染症のリスクを16〜21%低下させるというエビデンスがある。体調が悪い時は外出を控える。これは自分のためだけでなく、隣に座る人がんや慢性疾患を抱えているかもしれないという想像力の問題でもある。
日本社会では、マスク着用や手洗いの文化がもともと根付いており、この点では他国より有利な面もある。しかし同時に、「体調が悪くても休めない」という職場文化は、感染拡大のリスクを高める要因にもなりうる。個人の予防行動と、それを支える社会的・制度的な仕組みの両方が問われている。
記者
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