南シナ海の「ルール」は誰のものか
中国が南シナ海行動規範(CoC)交渉の「重要局面」入りを宣言。ASEANとの合意は地域の安定をもたらすのか、それとも中国の海洋戦略を正当化する枠組みになるのか。日本を含む関係国の視点から読み解く。
合意が成立したとき、それは「平和の枠組み」なのか、それとも「既成事実の制度化」なのか。
2026年3月2日、中国の王毅外相は年次外交記者会見でこう述べた。南シナ海における行動規範(CoC:Code of Conduct)の交渉は「重要な局面」に入った、と。穏やかな言葉の裏に、長年膠着してきた多国間交渉がいよいよ動き出すかもしれないという期待と、各国が抱える根深い疑念が同居している。
「行動規範」とは何か、なぜ今なのか
南シナ海行動規範(CoC)とは、中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国が交渉してきた、南シナ海における国家間の行動ルールを定める枠組みである。領有権が複雑に絡み合うこの海域では、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ、台湾がそれぞれ中国と重複する主権主張を持ち、漁船の拿捕、軍艦の接近、人工島の建設といった緊張が繰り返されてきた。
CoCの構想自体は古く、2002年に中国とASEANが「宣言(DOC)」に署名したことに始まる。しかし法的拘束力を持つ「規範(CoC)」への格上げは、交渉開始から20年以上が経過した今も実現していない。最大の争点は、①規範の地理的適用範囲、②法的拘束力の有無、③第三国(事実上の米国)の活動をどう扱うか、の3点だ。
王毅外相が「重要局面」と表現した背景には、複数の地政学的変数がある。トランプ政権の復帰により米国のアジア関与が流動化する中、中国はASEAN諸国との二国間・多国間関係を強化する好機と見ている。一方、フィリピンのマルコス政権は対中強硬姿勢を維持しており、2023年の常設仲裁裁判所(PCA)裁定の履行を求め続けている。
「合意」の中身が問われる理由
交渉が前進しているという事実は、表面上は歓迎すべきことに見える。しかし、専門家の間では「どんな合意でも良いわけではない」という懸念が根強い。
最も議論を呼んでいるのが、規範の「法的拘束力」だ。中国はこれまで、拘束力のある規範には慎重な姿勢を示してきた。もし今回の合意が拘束力を持たない「紳士協定」にとどまるなら、2016年にPCAが下した「中国の九段線主張は国際法上無効」という裁定を事実上棚上げにする効果を持ちかねない。
また、地理的範囲の問題も重要だ。中国が主張する「九段線」の内側をCoCの適用範囲とするなら、それは中国の領有権主張を黙認することを意味する。この点でベトナムやフィリピンは強く反発しており、交渉の最大の難所となっている。
日本の立場はどうか。日本は南シナ海の直接的な領有権主張国ではないが、同海域は日本のエネルギー輸送路の約80%が通過する生命線だ。海上自衛隊は「航行の自由」作戦に協力的な立場を取り、米国・フィリピン・オーストラリアとの連携を深めている。日本にとって、法的拘束力が弱く中国に有利な内容のCoCは、事実上の現状変更を追認するリスクを孕む。
各国の思惑:一枚岩ではないASEAN
ASEAN内部でも、CoCへの温度差は大きい。カンボジアやラオスは中国との経済的依存関係が深く、交渉の早期妥結を望む傾向がある。一方、フィリピンとベトナムは実効的な内容を求めて粘り強く交渉を続けている。インドネシアは直接の領有権主張こそないが、ナトゥナ諸島周辺での中国漁船の活動に神経をとがらせている。
こうした多様な利害関係は、ASEAN独自の意思決定原則である「コンセンサス」と「内政不干渉」とも緊張関係にある。全加盟国が合意できる内容は、必然的に最小公倍数的なものになりやすい。
国際社会の視線も厳しい。欧州連合(EU)や英国は「法の支配に基づく海洋秩序」を繰り返し強調しており、拘束力の弱い合意には批判的だ。インドも南シナ海の動向を、自国が関わるインド洋やアンダマン海の先例として注視している。
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