トランプ大統領、1兆ドル国防法案に署名―『アメリカ・ファースト』と議会の『現実主義』が衝突

静かな署名が物語る米外交の「ねじれ」

2025年9月11日、ドナルド・トランプ米大統領は、2026年度の国防方針を定める国防権限法（NDAA）に署名しました。総額9010億ドル（約135兆円）という過去最高の予算規模は、米国の軍事力維持への強い意志を示す一方、その内容はトランプ大統領が掲げる「アメリカ・ファースト」政策と明らかに矛盾しています。大々的な式典もなく静かに行われた署名は、ホワイトハウスの思惑と、議会や国防総省が描く安全保障戦略との間に存在する深刻な「ねじれ」を浮き彫りにしています。

この記事の要点

• 過去最高の国防予算: 2026年度の国防予算は、大統領の要求額を80億ドル上回る9010億ドルに達し、米国の軍事的優位を維持する姿勢を明確にしました。
• 大統領の意向と真逆の欧州支援: トランプ大統領の欧州への関与縮小方針に反し、法案にはウクライナへの8億ドル、バルト三国への1億7500万ドルの新たな軍事支援が盛り込まれました。
• 議会による「ガードレール」: 欧州駐留米軍の削減を制限し、NATOの指揮系統を維持する条項は、議会が大統領の外交政策を縛る「ガードレール」として機能していることを示しています。
• 国内政策との「取引」: トランプ大統領は、国防総省における多様性・公平性・包括性（DEI）プログラムの廃止など、自身の公約実現と引き換えに、不本意な外交方針を盛り込んだ法案を受け入れた形です。

詳細解説: 綱引きの末の妥協

背景: アメリカ・ファースト vs. 伝統的安全保障

トランプ大統領は一貫して、欧州の同盟国は自国の防衛にもっと責任を負うべきだと主張し、NATOへの米国のコミットメントに懐疑的な姿勢を示してきました。彼の最近の国家安全保障戦略も、ロシアへの融和的なアプローチと見なされ、欧州諸国に大きな不安を与えています。今回のNDAAに盛り込まれたウクライナやバルト三国への強力な支援、そして欧州駐留米軍の維持は、この大統領の基本姿勢とは真っ向から対立するものです。

議会の超党派的な現実主義

なぜ、与党である共和党が多数を占める議会が、大統領の意向に反する法案を可決したのでしょうか。これは、米国の立法府には、政権の意向とは別に、ロシアの脅威を極めて深刻に捉える超党派のコンセンサスが存在することを示しています。特にNDAAは、65年連続で成立してきた「聖域」ともいえる重要法案であり、国防総省や軍事産業、そして伝統的な安全保障を重視する議員たちの意向が強く反映されます。彼らにとって、ウクライナ支援の停止やNATOの弱体化は、米国の国益を著しく損なう選択肢なのです。

地政学的な意味合い: 世界に送られた二重のメッセージ

この法案の成立は、世界各国の首都に複雑なメッセージを送りました。

• ウクライナと欧州へ: 大統領個人の言動に揺さぶられつつも、米国の制度的な安全保障へのコミットメントはまだ健在である、という一定の安堵感を与えました。
• ロシアへ: トランプ政権との交渉の裏で、米国議会はウクライナ支援を継続する強い意志を持っているという、明確で強力な警告となりました。
• アジア太平洋地域へ: 米国が欧州への関与を維持することは、インド太平洋地域へのリソース配分に影響を与える可能性があります。同盟国である日本や韓国、台湾は、米国の戦略的優先順位を注意深く見守る必要があります。

PRISM Insight: 1兆ドル時代の防衛技術トレンド

この巨額の国防予算は、特定の技術分野への投資が加速することを示唆しています。トランプ大統領が署名の理由の一つとして挙げたミサイル防衛システム「ゴールデンドーム」に加え、ウクライナでの戦訓を反映した無人航空機（UAV）、対ドローン技術、精密誘導兵器、そしてサイバーセキュリティ分野への投資は今後も継続・拡大されるでしょう。特に、低コストで効果的な非対称戦力への対抗策は、ペンタゴンにおける最重要課題の一つです。これは、関連技術を持つ防衛・テクノロジー企業にとって、継続的なビジネスチャンスを意味します。

今後の展望: 法案は実行されるのか？

最大の焦点は、トランプ大統領がこの法律を誠実に実行するかどうかです。大統領には、予算の執行を遅らせたり、解釈を捻じ曲げたりすることで、議会の意図を骨抜きにする手段が残されています。特にウクライナへの武器供与のペースは、今後のロシアとの交渉における駆け引きの材料として利用される可能性があります。静かな署名は、法案への同意ではなく、あくまで一時的な「休戦」の合図かもしれません。大統領の個人的な外交スタイルと、米国の制度的な安全保障政策との間の緊張関係は、今後も世界の地政学を揺るがす中心的なテーマであり続けるでしょう。